23年3月11日に発生した巨大地震「東北地方太平洋沖地震」で被災された生徒・学生・保護者、学校・大学関係者はじめ、皆様に心よりお見舞い申し上げます。
学校では4月に入り新年度を迎えましたが、被災地と福島第一原発事故による避難周辺地域では入学時期や授業開始の目処も立たず、学校教育活動の大幅な遅延、学習活動の停滞を余儀なくされるところも少なくありません。こうした中で大学進学を決意している受験生は、苦難の受験準備を強いられることになりますが、進学が成就するよう念じています。
ところで、小社の大学受験情報誌『螢雪時代』は、前身の『受験旬報』が昭和7(1932)年に創刊されてから、今年で80周年になります。
そこで、これまであまり知られていない昭和初期から戦時下にかけての学校制度と「旧制大学」進学や入試方法、「旧制高校」受験、戦後の「新制大学」発足当初の入試状況、及び各時代の受験生から小誌に寄せられた“受験ユーモア・コント”などを振り返り、今に続く大学入試のミニ昭和史を紐解いてみました。
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1.昭和初期~戦時下: 「旧制高校」 受験時代
戦前・戦中の学校制度は、戦後の新教育制度下おける学校制度に比べ複雑で、所謂“複線型”といわれるように様々な学校種に分かれ、上級学校への進路も多様に分岐していた。
昭和初期の学校制度と進路のおよそのイメージは、次のようなものである。
まず、「尋常小学校」で6年間の義務教育を終えた後、そのまま社会に出る、あるいは2年間の「高等小学校」に進むといった、初等教育機関のコースがあった。
他方、義務教育終了後、上級学校の旧制「中学校」(旧制中学)に進み、さらに旧制「高等学校」(旧制高校)などから、旧制「大学」(帝大、官立大、公立大、私立大。以下、旧制を省略)、あるいは「高等師範学校」や旧制「専門学校」などの高等教育機関へ進む進路があった。
また、「高等女学校」や「師範学校」、「実業学校」などの進路も併設されていた。(図1参照)
昭和15(1940)年の旧制中学は全国で600校、生徒数約43万人で、旧制中学への進学率は約7%だった。また、この時代の大学数は50校(旧外地に設置した大学含む)近くで、学生数約8万人であった。
その頃の大学としては、東京・京都・東北・九州・北海道・大阪・名古屋の各帝大(文部省所管外として京城<朝鮮総督府>・台北<台湾総督府>の2帝大)のほか、東京商科大、神戸商業大、東京工業大、東京・広島の各文理科大、新潟・岡山・千葉・金沢・長崎・熊本の各医科大などの官立大、京都府立医科大・大阪商科大などの公立大が設置されていた。
私立学校(専門学校)は大正7(1918)年の「大学令」公布により、続々と「大学」への昇格を果たし、大正9年の慶應義塾大・早稲田大を皮切りに、明治大・法政大・中央大・日本大・國學院大・同志社大がそれぞれ昇格。以後、東京慈恵会医科大・龍谷大・大谷大・専修大・立教大・立命館大・関西大など、大正15年(1926)年までの大正年間だけでも総計22大学が昇格している。これらの大学には、法律学校や宗教系の系譜をひくものが多い。
昭和10(1935)年代の大学への主な進学コースは、尋常小学校(昭和16<1941>年からは国民学校<初等科6年、高等科2年>に改編)卒業後、旧制中学 → 旧制高校(高等科。以下、同) → 大学/旧制中学 → 大学予科 → 大学/旧制中学 → 大学専門部( → 学部)などであった。このうち、大学予科 → 大学/旧制中学 → 大学専門部のコースは、私立大に多くみられた。(図1参照)
また、旧制中学 → 旧制高校 → 大学といった一連の教育課程は、当時の多様な教育体系の根幹をなすものであり、大学は所謂“最高学府”として位置づけられていた。
なお、各教育機関の修業年限や入学資格等は年代によって変更されており、特に戦時下では修業年数の短縮が図られた。
昭和10年代の大学への入学資格は、「旧制高校高等科卒業者及びこれと同等以上の学力のある者(旧制専門学校卒業者等)、大学予科修了者」となっていた。また、大学専門部への入学資格は「旧制中学卒業者及び同資格者」などであった。
大学入学者選抜(入試)については、入学志願者数が当該大学(学部・学科等)の定員を超過した場合に、各大学(学部)の規定(入試科目等)によって実施されていた。
東京帝大の試験科目は各学部規定によるが、文系=外国語、国語、漢文、歴史などから、理系=外国語、数学、物理、化学、生物学、力学、植物、動物などから、出題されていた。
◇「優先順位制」の入試方法 ◇
当時の大学入学者選抜方法としては、志願者の出身学校によって入学に関する“順位”を付与する「優先順位制」が採用されていた。
これは、予科を置く大学では予科修了者に、予科を置かない大学の文系学部では旧制高校「文科」卒業者に、理工医学系学部では旧制高校「理科」卒業者に、それぞれ入学に係る“優先順位第1位”を付与していた。
“優先順位第1位”の志願者数が当該大学(学部)の定員を超えた場合、その「第1位志願者」のみについて入試が実施された。
他方、第1位志願者数が定員を満たさなかった場合は、第1位志願者全員が“無試験合格”となり、欠員補充は「優先順位第2位以下」の志願者に振り向けられた。
欠員補充に旧制高校以外の出身者があてられたことから、それらの入学者は“傍系入学者”と呼ばれた。
たとえ帝大であっても、第1位志願者数が少なく定員に欠員を生じた場合、第1位志願者は“無試験合格”が許可されていた。
例えば、東京帝大や京都帝大の場合、文学部では学科によって第1位志願者数が定員を満たさない年度もあり、無試験入学者もいたようだ。他の帝大でも理系や医学、法学等は第1位志願者数が多く厳しかったが、無試験同様の学部(学科)もみられた。
東京帝大や京都帝大以外の帝大では、傍系入学者も少なくなかったようだ。
◇ 今も昔も変わらぬ進路選択の重要性 ◇
旧制高校から大学へ進学する際には、まず志望分野(学部・学科)を決め、次に出願大学を決めなくてはならない。東京帝大の場合、入学資格者は「旧制高校高等科及び旧制の学習院高等科(当時は官立)卒業者、及びそれと同等以上の学力のある者」とされていた。
これらの入学資格者で“優先順位第1位”に指定され、実力に自信のある者は当然、東京帝大(競争倍率のある人気学部・学科)を受験したであろう。
しかし、受験に“絶対合格”はない。不運にも東京帝大が不合格になり、所謂“白線浪人”(旧制高校生の白線つき制帽に因む)になる者も少なくなかったようだ。
第1位志願者であることを有効に使い、第1位志願者の少ない他の帝大や学部・学科に出願しておけば、無試験入学を果たせたかもしれない。
進路選択、出願校や学部・学科の選定の重要性は、今も昔も変わらなかったようだ。
旧制高校は、専門教育あるいは高等普通教育を施す高等教育機関(尋常科4年、高等科3年。高等科=文科、理科)であったが、実質的には帝大への準備教育機関であり、帝大への“予備門”として見なされていた。
昭和10(1935)年頃の旧制高校の学校数は全国でわずか32校、生徒数は2万人以下(予科を含む)であった。
昭和10年代終期の旧制高校としては、第一(東京:現・東京大。以下、「現」を略)・第二(仙台:東北大)・第三(京都:京都大)・第四(金沢:金沢大)・第五(熊本:熊本大)・第六(岡山:岡山大)・第七(鹿児島:鹿児島大)・第八(名古屋:名古屋大)の各高等学校(ナンバー・スクール)のほか、新潟(新潟大)・松本(信州大)・山口(山口大)・松山(愛媛大)・水戸(茨城大)・山形(山形大)・佐賀(佐賀大)・弘前(弘前大)・松江(島根大)・東京(東京大)・大阪(大阪大)・浦和(埼玉大)・福岡(九州大)・静岡(静岡大)・高知(高知大)・姫路(神戸大)・広島(広島大)・富山(富山大)といった所在地名を冠した各高等学校、武蔵・甲南・成蹊・成城の私立の高等学校などがそれぞれ設置されていた。(表1参照)
旧制高校といえば、破れた衣服や制帽といった“弊衣破帽”や、寮歌を声高に歌う“高歌放吟”をイメージする向きもいよう。旧制高校は、語学重視の教育やリベラル・アーツの発想に基づく教育を主体に、学寮生活などを通して将来の社会的指導者としての素養を培うなど、モラトリアム的性格をもつエリート育成の特権的学校でもあった。
◇ 受験事情 ◇
旧制高校生は、帝大への“優先順位第1位”、つまり“入学保証書”を手に入れたも同然であった。そのため、旧制高校の入試は帝大へ進学するための“登竜門”であり、それだけに旧制高校の入試は非常に厳しい受験競争が展開されていた。
こうした当時の受験事情から、小社刊行の『受験旬報』や初期の『螢雪時代』(『受験旬報』を改題した昭和16年から新制大学の発足まで)の読者の多くは、旧制高校への進学志望者で、旧制大学・旧制高校へ進学するための“受験情報・対策誌”として必携であった。
◇ 入試方法 ◇
旧制高校高等科への入学資格は、旧制中学4年修了者とされていた。その入学者選抜(入試)方法は、学科試験(筆答試問)、口頭試問(人物考査)、及び身体検査の結果などをもとに、総合的に判定されていた。
因みに、第一高等学校の学科試験(昭和13年度)は、文科=国語漢文、日本地理、数学、外国語/理科=国語漢文、物理、数学、外国語で、実施時期は3月半ば過ぎであった。
これまでみてきた時代は、主に小社の『受験旬報』が創刊された昭和7(1932)年頃から太平洋戦争勃発前の昭和10年代半ば頃までである。
昭和12(1937)年の日中戦争以後、国の文教政策にも戦争の影響が出はじめていたが、昭和16(1941)年12月からの太平洋戦争以後は、学校と大学の在学年限や修業年限の短縮措置が講じられるなど、戦時体制下での非常時教育の施策が次々と打ち出されていった。
戦局の逼迫は旧制高校などの入試にも影響を及ぼし、受験準備教育の受験生への負担などを考慮して、口頭試問を重視した入試が行われていたようだ。
また、昭和20(1945)年頃の入試は、第一期が旧制高校、高等師範学校/第二期が官立の専門学校、青年師範学校/第三期が臨時教員養成所などと、3期に分けて実施されていた。
昭和17(1942)年度からは、旧制高校高等科及び大学予科の卒業時期が9月に繰り上がったため、大学の入学時期も10月に改められた。
このため、大学入試の実施時期も帝大と官立大では、(1)8月半ば過ぎから、(2)9月初めから、(3)9月下旬から、(4)大学が定める日、の4期に分けて実施されていた。
しかし、昭和18年度入試は1回しか行われず、翌19年度には戦時の勤労動員等を考慮し、学科試験を課さず、調査書等によって入学を決めていたようだ。
このように、戦時下の入試は国の戦時教育政策の影響を受け、入試の実施方法等は年ごとに大きく揺れ動かされていた。
◇学徒出陣◇
戦局の悪化による兵力不足に対処するため、国は学徒にも戦時動員を迫った。昭和18(1943)年には理工科系及び教員養成系諸学校の学生を除く、一般学生の徴兵猶予を停止して旧軍隊に入隊させるといった措置が断行された。
昭和18年10月21日、「出陣学徒壮行会」が東京・明治神宮外苑競技場で行われ、雨の中、約7万人の出陣学徒が参加したといわれる。全国で徴兵された学徒兵の中には、戦死した者も少なくない。
なお、昭和20(1945)年4月から21年3月までの1年間、国民学校初等科を除き、学校の授業は原則として停止されることになり、学校教育は最後の決戦段階に突入するに至った。
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2.終戦直後の大学入試: 「新制大学」 受験
昭和20(1945)年8月の終戦によって、日本は連合国軍の占領下に置かれた。連合国軍最高司令部(総司令部)の要請を受けアメリカから派遣された「教育使節団」は、昭和21年3月、日本の教育改革の基本方策をまとめた「報告書」を総司令部に提出した。
総司令部では、教育・文化担当部局のCIE(民間情報教育局)を通して、「報告書」に示された教育理念や改革方策によって戦後の教育改革を進めるよう日本側に求めた。
日本政府はこれを受け、当時の教育者や文化人などからなる「教育刷新委員会」を内閣に設置し、昭和21年9月から審議を開始。戦後教育の柱となる「教育基本法」や「学校教育法」などの教育法制の整備を審議・立案し、戦後教育の体制をつくりあげた。
“教育の憲法”ともいえる「教育基本法」(昭和22<1947>年3月公布・施行)とともに「学校教育法」が制定され、学校教育に関する法規が整備された。
これによって、前述した戦前・戦中の“複線型”学校体系から、小学校6年・新制中学校3年・新制高等学校3年・新制大学4年の所謂「6・3・3・4制」の“単線型”学校体系に転換された。
高等教育機関については、旧制高校、大学予科、旧制専門学校、師範学校等が旧制大学と統合、改編されて、4年制の「新制大学」に一本化された。
なお、旧制専門学校のうち4年制大学に転換しなかったものは、暫定措置として修業年限2年または3年の短期大学とした(昭和39<1964>年に暫定措置を撤廃、恒久化)。
新制大学の発足は、昭和23(1948)年4月(関西の公立1校、私立11校が発足)以降、旧制から新制への移行が本格化した。特に国立大の設置については、前述のCIEが、大学の大都市集中を避けて教育の機会均等を実現するため、“1府県1大学”(旧・府県制)の方針を求めていた。文科省はこれを踏まえて昭和24年5月に「国立学校設置法」を制定し、特別な地域を除いた1県
1大学設置の原則の下に69校の新制国立大が誕生した。
新制大学(以下、大学)の入試は、昭和24(1949)年度から本格的に実施されることになるが、昭和24年度入試の実施方法等について、当時の文部省は次のような基本方針を大学側に求めている。
1.高等教育を受けるに最も適応した能力を備えているものを選抜すること
2.下級学校の教育を理解し、その円満な発展を助長するような選抜方法をとること
3.入学者選抜自体が一つの教育であるから、教育目的に沿うように選抜方針をたてること
そして、入学者の判定は、「進学適性検査・学力検査・身体検査、及び調査書の成績」を総合して行うものとしている。
「進学適性検査」は、大学進学志望者の進学適性を検査するもので、「学力検査」ではないとされていた。検査の内容は、大学での教育を履修するのに十分な資質があるかどうか、文系、理系のいずれに適するかをみるもので、高校1年程度の文科的問題と理科的問題とが含まれていた。
この「進学適性検査」は、昭和24年度の第1回新制大学入学者選抜から実施された。国立大では文部省が問題を作成し、全国一斉に行われた。公私立大では、国立大とともに実施することも各大学独自の進学適性検査を行うこともできた。
しかし、この検査は、練習効果が顕著に出ること/そのための受検準備が激化し、学力検査との二重の負担になったこと/大学の利用が積極的でなかったこと/予算が十分でなかったこと/国立大学協会、全国高等学校長協会等から中止の要望が出たことなどから、昭和30(1955)年度から一斉実施は廃止された。
国立大の入試については、大学を1期校と2期校の2グループに分け、それぞれ別の試験日程で行われた。初回の昭和24年度入試だけは、「国立大学設置法」の公布が5月末であったことから、試験期日は、1期校は6月上旬から、2期校は6月中旬からであった。昭和25(1950)年度からは、まず1期校の試験日が3月初旬、2期校の試験日は1期校の合格発表後の3月下旬に設定(公立大は3月初旬から各大学で定める)され、一斉に実施された。
1期校、2期校のグループ分けは、文部省の「大学入学者選抜実施要項」の別表で定められ、廃止されるまでの30年間ほぼ固定されていた。(表2参照)
「1期・2期校制」の区分については、法学部はじめ、文・教育・理・医・薬・歯学部で著しく偏っている/地域的にも不均衡/2期校における出願者数に対する実受験者数の割合が極めて低く、入学辞退者も多い/国立大間の社会的な“差別観”を招いた/高校における1期校への進学率の優劣が学校評価に繋がる傾向にある、などの問題点が指摘された。
このため「1期・2期校制」は、「共通第1次学力試験」実施前年の昭和53(1978)年度まで続けられたが、翌年度から廃止された。国立大の試験期日は昭和54年度以降、昭和62(1987)年度の「連続方式」導入の前年度まで一本化されていた。
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本稿ではここまで、戦前・戦中の旧教育制度における学校制度や進学・受験の実態、戦後の新制教育制度発足当初の大学入試の状況などをみてきた。
これらの時代を通して、小社の『受験旬報』と『螢雪時代』の「受験ユーモア」欄に受験生から寄せられた“ユーモア・コント”の一部(昭和8<1933>年~昭和24<1949>年)を以下に紹介する。コントからは、その時代の世相とともに、幅広い薀蓄に裏打ちされた往時の受験生の感性がうかがえる。